洋の東西を問わず自分の感性にピッと触れる様な映画であれば見る。イギリスやアメリカのラブコメディーから、監督の「どうだ、私のこの芸術は』と言わんばかりの映画まで、私の映画に対する間口は広い。しかし、映画マニアの人達のように片っ端から見たりはしない。「見たい!」と思った映画だけを選んで見る。
韓国映画「息もできない」はポスター写真を見た時、どこから見てもやくざ稼業でしか生きて行けない風貌の男優ヤン・イクチュンが、この映画の製作、監督、編集、主演をしたと言う事で興味を持った。
脚本をどこに持ち込んでも採用されず、家を売ったお金で自分で作った独立系映画。余り期待もせずに見始めた。
殴り、殴られる映画だ。高利貸しの取り立て屋がヤン・イクチュン扮するスンフンの仕事。子供時代に父親の母親にたいする家庭内暴力を見て育つ。それが成人してからもトラウマとなりスンフンの心から離れない。
父親を殴り、取り立てに行って金を払わない人間を殴り、弟分を殴り、道ですれ違った女子高生を殴り・・・。スンフンの毎日は息もできない程苦しい。
歩きながら唾をはき、それが女子高生にかかる。その女子高生も家庭内に自分の力ではどうする事も出来ない程の問題を抱えていた。
という所から始まるこの映画は、恋愛劇、心理劇、暴力映画でもあるが、見る角度それぞれに完成度が高い。
映画半ばから瞬きもしない程の集中力で見続け、そして衝撃的な結末。これで終わりかと思えば、もう一度息を呑む様な最後があった
ヌーベルバーグじゃないか、これは。
そして様々な国際映画祭で25以上もの賞までとってしまった。
俳優としてのキャリアも長いヤン・イクチュン。こんなすごい映画を作ってしまって、これから先どうするの?。私は心配している。
韓国映画界は喜劇から悲劇、ノワール物に至るまで エンターテイメントに溢れている。日本映画ならここまでという所を韓国映画はもう少し一味足すという感じだろうか。
韓国という国が歴史に翻弄された時代にも映画はちゃんと作られて来た。それが例え日本帝国を讃える映画であったとしても監督や俳優は作る喜びを感じていたようだ。軍事政権下でも秀作は沢山作られている。軋轢に押しつぶされそうになる中で、映画人達はその時その時に出来る限りの力で映画を作り続けて来た。そういうエネルギーが今の映画人にも受け 継がれているように感じる。
韓国映画、ドラマというと眉間にしわを寄せる人達もいる。その理由は私には簡単に想像出来る。
ドラマ「冬のソナタ」の社会現象化は俳優ペ・ヨンジュンのそれであると言う方が正しい。その「ヨン様」を迎える空港での中年から熟年の女性達数千人の嬌声。そのニュースを見た日本中の私達は・・・呆れた。それが、韓国映画、ドラマというと「ミーハー」というイメージを我々に植え付けたのだと、私は推測する。
どこの国の映画でも同じ。秀作もあれば、駄作もある。名優もいれば、大根もいる。
そして、自他ともに認めるミーハーの私は、一度空港で韓流俳優を見てみたいものだと常々思っている。
更新が遅れました。
インターネットの無線LANの調子が悪くAppleとの電話での相談、やりとり、新品との交換と、心底疲れました。それでしばらくパソコンでキーを打つのが億劫でした。どうぞお察し下さい。