奈良という街(2)

平城宮
平城宮

平城宮に行くには近鉄西大寺駅で降りる。

無料シャトルバスに乗り辿り着いた平城宮は広大でだだっ広い平坦な土地だった。私も友達も最初は平城宮に行くつもりはなかった。しかし,車窓から見えた大極殿にすっかり魅了されてしまった。

平城宮の西に生駒山,東に若草山。その丁度真ん中に平城京は作られた。いまだに高層建築の殆どない奈良は,生駒山の裾野辺りから見える。あの山を越えれば大阪。当時の人達にとって大阪はそんなに遠い土地ではなかったはずだ。

炎天下、長蛇の列の一人となりやっと上がった大極殿から見る平城宮、その外に広がっていたであろう平城京を思う。京都に都を遷すまでの短い間,大阪,長岡京にも都があった。大した交通手段もない時代に何と不経済で,不合理な事を繰り返していたのだろう。

堀辰雄『大和路 信濃路」
堀辰雄『大和路 信濃路」

17,8才の頃、書店の棚で見つけた随筆本。「大和路 信濃路」。当時,どこの家庭にでもあった文学全集で堀辰雄の小説も一応読んだ。特に感銘も受けなかった。しかしこの本を見た時、装丁や本の持つ雰囲気がとても好きだった。高校生の私には少し高価な本だったが,何回か書店に通い見ているうちに買ってしまった。

その本の中に出て来る寺「海龍王寺」。やっと訪ねた。

1941年、堀辰雄が訪ねた当時の海龍王寺。門の向かいは田んぼである。今はその面影もなく家が建ち並んでいる。荒れた寂し気な風情等今はなく,あれ程長い間憧れて来た寺は僅かに土塀にその当時の雰囲気を残しているのみである。当たり前だ。70年も前と今と違っていて当然なのに。

海龍王寺
海龍王寺

海龍王寺は遣唐使の無事を祈願して光明皇后が建てた。京都の寺と比べると庭の様式が枯山水でないのがいい。奈良時代の寺は庭に精神性を込めたりしない。仏を祀るお堂がメインなのだと感じる。時は夏。楠の木や萩,椿等の緑の枝がお堂の前の広場を取り囲み、無風でねっとりとした暑さの中に私はいる。

 

エンタシス様式の柱
エンタシス様式の柱

海龍王寺の後唐招提寺に行く。

唐招提寺は20才の頃に行った。近鉄尼ケ辻で降り,そんなに広くない道をトコトコ歩いた思い出があるが,今やここも様変わりしていた。寺の前は「海の家」みたいな食堂兼土産物屋が並んでいる。中に入ればここも人、人、人。昔のがらんとした人気にない寺と境内が世界遺産に変わっていた。唐招提寺は40年前も今も変わらずに建っている。しかし、社務所では土産物を売るのに非常に熱心だ。

寺として守らなければならない一線をここは踏み外してしまった様に思う。