我が小屋の裏を針畑川と言う渓流が流れている。この川に沿って幾つかの村がある。そしてこの地域を朽木では「針畑(はりはた)」と言う。
今80代の村人が働き盛りの頃、この村も林業で活気があり、子供も多く賑わっていた。しかし、今やこの針畑も限界集落。何とも直接的な「限界」という二文字。この二文字には諦めさえ感じられる。
ここ数年、これでは駄目だと、村の再生を考える会合が市のプロジェクトとして開かれている。その内容を知り、私は「限界」を感じている。針畑の一番奥にマイナーなブナの原生林がある。ここを観光の目玉にしようと、こんな会合では必ずこの「原生林」が出る。原生林の入り口に駐車場を作り、自動販売機を置き・・・と、こんな貧しいアイデアの為の会合である。紅葉の頃、漁、猟の頃、キャンプの頃、若葉の頃、一本しかない村の道を沢山の車は通る。そして沢山のコンビニエンスストアの袋、お弁当の空き箱、缶コーヒーの空き缶等、ゴミが放棄される。
私は思う。この針畑は何もないけれど今のままでいい。車をゆっくり走らせれば、鹿に会う事も出来る。車を降り回りを見渡せば、野鳥が群れになって飛んでいるのも見える。山の湧き水でのどを潤す事も出来る。畑にいる村の奥さんに声をかければ、無農薬野菜を売ってもらえるかも分からない。蕨や蕗を摘みたければ、村の人の同意を得ればいい。一食分位の山菜なら誰もイヤな顔はしない。村の道は公道でも、そこには村人が住んでいるという事を忘れてはいけない。観光客相手の店は殆どないが、「何もない」良さが満載の針畑。街から遊びにくる人も、この村に住んで再生を考えている人も、この「何もない」良さを分かって欲しい。
そしてゴミを捨てる事なく、静かにこの自然や村のたたずまいを満喫してくれる人達が私の小屋の前の道を歩いたり、ゆっくりと走る車の窓から山や空を仰いでいたりする・・・こんな事から村の再生が始まればと、経済を優先する人達からは理解してもらえない事を考えながら、しかし、まんざら不可能な事ではないと私は思っている。